Digital Kitchen インタビュー記事

1)web空間について
風景とながく取り組んでこられた小林さんがwwwというヴァーチャルな空間に関心を持たれたのは、比較的早い時期だったのではないかと思います。初期のwww空間への関心には、かつて郊外の造成地にひかれ、居心地のよさを感じ、そこを見続けようとした意識と共通するものがあったように感じられますが?

Webは、1997年の春から始めました。郊外の造成地と同じように、中心ではなく周縁に位置するWebというもののあり方に強く魅かれました。不定形の荒野のような場所。決して完成しない、流動的な場所。また、当時、出始めたデジタルカメラという新しいメカにも強く魅かれました。Webとデジタルカメラは、とても相性がいいと感じました。過去の作品を資料として見せるというよりは、Webを新たな表現の場として使いたい、そう考えていました。

2)消えていくもの
「デジタル写真は、消えてゆく映像なのだ。はかなさの獲得。残すための作品から消すための作品へ。-中略-この消えてゆくという感覚は、どのような変革を私たちにもたらすのだろうか」と99年に書いておられます。(「媒」1999.5.30)現時点でなんらかの変革が写真に(または自分の写真に)起きている感じはおありでしょうか?

当時、コンピュータのモニターで見る写真をとても新鮮に感じていました。紙という支持体を離れたところで成立する写真。それは、浮んでは消えてゆく「イメージ」そのものと言ってもいいでしょう。かといって、印画紙やプリント用紙を否定しているわけでは決してありません。写真が、自由度を獲得しつつあるということかもしれません。変革は、僕らの気がつかない深層で、すでに起きているように思います。Web上に現れる無限数の写真たちがそれを証明しています。アダルトからアートまで、様々な写真がそこにあります。それが今という時代なんだと思います。僕はそのことを肯定的に捉えたいと思っています。

3)消えてゆくもの
重ねてお聞きします。 郊外の造成地が、それまでの土地の記憶をいっさいがっさい消去されていることにある居心地のよさを感じたという小林さんにとって、もともと何かを見つづける、写真を撮るということの周辺には、この「消えてゆくもの」、「消去」という感覚がつねに重要なファクター(しかもほかの多くの写真をめぐる営為とはいささか異なる方向で)であるように思えるのですが?

消える、見えなくなる、不在、行方不明、変化すること、これらはおっしゃるようにとても重要なファクターとなっています。ただ、僕はそれらを否定的には捉えたくはない。肯定的にということが重要です。向日性と言い換えてもいいと思います。ニュータウンという場所も、ともすれば否定的に捉えがちですが、僕は、アイデンティティー亡き後のサッパリとした清々しさ、空虚さがとても好きでした。現在も東京郊外に住んでいますが、日々変化を楽しんでいます。

4)風景の困難
小林さんにとって「風景」が終焉したとすると、それは造成地が「街」となったときに、「消去」のうえに街ができたことそれ自体が消去されてしまったということにも関係するのではないかと思います。風景の終焉もしくは風景の困難を実感した理由やきっかけとは?

それを写真的に実感したのは、1992年、ロッテルダムで行われた写真ビエンナーレに参加した時です。その会場で、それまでやってきた写真というものが総括されたなと感じました。これから、たぶん写真は変わるんだろうなと・・・そんな予感がありました。それから5年後、僕はデジタルカメラを手にしていた。当時は考えもしなかったけれど・・・。10年も20年も同じような写真を撮り続けるといった選択肢も可能なわけですが、僕にはできない。時代が変われば写真も変わる、カメラが変われば写真も変わる。写真とはそうしたものです。ついでにこの間、女房も変わりました。女房が変われば写真も変わる。これも真実ですね。(笑) デジタル・キッチンのシリーズには、女房が頻繁に登場します。だからといって決して女房が主題というわけではないのですけれど・・・。女房や食卓のものたちを借りて、その向こうにある不可視のイメージに向かうということかもしれません。

5)デジタル・キッチン、日常に眼を向け続けること
デジタル・キッチンに現れる光景は、「日常」の光景、長期的に見ればゆっくりと変化していくものではあっても、基本的には、変わらぬ日々の暮らしの光景です。しかし、個々のイメージは凡々とした日常というよりは、むしろその都度、写真が「発見」されているような新鮮さが感じられます。同じ場所で日常を見続けることの意味とそこでの手ごたえとは?

子供の頃からカメラという機械に慣れ親しんできた僕にとって、写真を撮ることはご飯を食べることと同じように、それほど特別な行為ではありません。毎日食べるご飯が、美味しく感じたり不味く感じたりすることがあるように、キッチンの光景も、その日の気分や体調、光の具合などで違って見えてきます。僕はいつも、そのちょっとした違いを楽しみながら撮影しています。とりわけ、デジタルカメラは身体に近いカメラで、何よりも気軽にシャッターを押せる点が気に入っています。日常を見続けることの意味は、考えてもよくわかりません。今こうして生きているから、ということでしょうか。手ごたえというより、撮り続けることの楽しさ、嬉しさ、といった感じで日々を過ごしています。

 

2002年 「サイト、場所と光景」東京国立近代美術館のカタログに掲載した文章です。

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