写真表現の可能性/Webとデジタル写真 小林のりお

Web Photo Collaboration の試み
 2000年10月、佐藤淳一・高橋明洋・丸田直美、そしてこの私でWeb Photo Collaboration なる展覧会を実施した。3週間にわたりWeb上と神楽坂にあるビルの一室を借り切った会場で写真を展示するという企画だった。Webには毎日、デジタルカメラによるそれぞれの写真がアップロードされた。一方、会場でも日々インクジェットプリントによる写真の展示が行われた。増え続ける写真は、日を追うごとに会場を廃虚と変えていった。床や天井に貼り巡らされた写真は、日々古びてゆく「物」としての悲哀を漂わせていたように感じた。事後処理としての写真がそこにあったということだろうか。一方、Web上の写真は、どんどん更新されて行くから、そうした古さを感ずることはない。その多くが「今・この時」といったアクチュアリティーによって支えられている。日々の更新は、作者がその場に留まることを許さない。追われるように写真を撮り、追われるようにアップロードするといった行為が、即ち「写真」ということになった。こうした経験は、従来の雑誌やギャラリーといった媒体では決して得られなかった不思議な感覚である。展覧会の最終日、展示プリントの多くは作者の手によって引き裂かれ、破棄された。おそらく夢の島か何処かのゴミ処理場で灰となったのだろう。一方、Web上のデータは、最終日翌日の午前0時に、マウス操作によって一瞬にして跡形もなくサーバー上から消え去った。

Web上の写真表現
 高橋明洋氏のWebサイトは、ここ2年ほどの間、ほぼ毎日更新されている。デジタルカメラを使い、路上のゴミを撮影してはアップロードを続ける彼の行為は、単なる趣味の域を越えて見る者の眼を射る。Webサイト開設当時から彼の仕事を見続けている私は、朝起きて彼の写真を見るのが日課になっている。二三日更新が滞っていると、病気でもしたのかなと心配になる。まさに、彼の行為が私の日常とシンクロしているのだ。彼の膨大な量の写真は、後にニコンサロンでの個展に結実した。
 佐藤淳一氏のサイトも、写真が毎日更新されている。過去を辿ると、日付のついた写真が延々と出てくる。彼の仕事を見ていると、カレンダーをめくるように、写真をめくる行為が即ち「写真」であり、この時代のリアルなのだと思えてくる。そこでは、絶えず時間は更新され留まることがない。彼は決して「時間よ止まれ」などとヤボなことは言わない。自らも流されているという感覚の中から表現を抽出している。また、彼は全世界に存在するWebライブカメラの映像に解釈を加え、作品化したシリーズも手がけている。Web上に存在する無数の映像を新たな現実として捉え直し、新たなリアリティーを出現させている。彼の仕事は、後にアメリカのアートサイトで全世界に向けて紹介された。
 丸田直美氏のサイトには、ピント外れのボンヤリとした映像が無数に存在する。何を撮ったかも定かではないイリュージョン的な映像は、見る者を不安にする。時にはNASAのサイトからダウンロードした宇宙写真が、丸田流に解釈されて出てくる。デジタルビデオからの静止画も頻繁に登場する。モニターの表面で連続しながら切断される映像を見ていると、一瞬迷子になってしまったかのような、目まいにも似た感覚に陥る。「写真」という枠組に縛られた者にとっては、解釈に苦しむであろう映像たちは、しかしながら、まぎれもなくこの時代の写真的なリアリティーをそなえていると私は思う。
 ここに紹介した彼らの共通項は、Webとデジタルカメラである。デジタルカメラは、彼らにとって特別なものを意味しない。彼らは、デジタルカメラをごく普通のありふれたカメラとして使う。理由があるとすれば、そこにデジタルカメラがあるから、ちょっとばかし便利だから、その程度のことなのだ。ここでは、デジタルカメラとWeb が身体化され、ごく身近な道具として使われている。
 Webは、最も身近な場所に存在するパーソナルなメディアでありながら、クモの巣状のネットを通じて全世界と繋がる。Webでの発表は、現時点ではマイナーな行為としてあるとはいえ、世界に通ずる大海へ自らを投げ入れるスリリングな行為でもある。アダルト写真から家族写真までありとあらゆる写真が氾濫するWeb に、表現行為としての写真を投げ入れる。日常性の中に埋没してしまうリスクを背負ながらも、彼らは、混沌とした多様性の海の向こうに、世界と直結した新しいリアリティーを探している。

デジタル・キッチンのこと
 2000年5月、銀座ニコンサロンで「デジタル・キッチン」というタイトルで写真展を開催した。Web 上で発表したものを含む、デジタルカメラによる作品展だった。題材は、自宅の台所。家の中で唯一、日々変化する場所が台所でありキッチンだという単純な理由から撮り始めたもの。この写真展のために、私は愛用していたライカとハッセルを売って、エプソンのPM-7000という大型のインクジェットプリンターを購入した。展示は、150万画素〜300万画素クラスのデジカメ・データから、画質が落ちるのを承知のうえで無理やりA1サイズにプリントアウトしたものを使用した。当然の如く発生する圧縮ノイズやピクセルのギザギザが、私にとってはとても魅力的なものに思えたからだ。いつの時代も、表現者は技術的完ぺきさから少しズレた所に自らの拠り所を求める。デジタル表現の可能性も、そんなところにあると思っている。

Web における写真表現の問題点
 現在、Web上には若い人たちを中心に様々な写真のサイトが誕生している。本格的なものはまだまだ少数であるが、Web を自身の表現の場として捉えてゆこうとする姿勢が次第に定着しつつある。
 若い人たちの写真サイトに見られる共通した構造は、日記と掲示板の存在である。どこのサイトを覗いても、大抵はこの日記と掲示板がある。文字によって自らの想いを語り、写真を語り、仲間とお喋りをする・・・そうした傾向が一般に定着している。自己の発露としての言葉が、延々と繰り広げられるわけだが、写真のサイトに限って言えば、結果として本来の写真を発表するという目的がいつの間にかズレてしまい、文字ばかりが氾濫してしまうといった弊害を招く。仲間とのお喋りは楽しいが、そのことが仲間以外の人々を排除してしまうという事態を招き、本来、グローバルな拡がりの中で存在すべきWebが、閉鎖的な場と化してしまう。また、あまりにもパーソナルな発表媒体ゆえに、目的を定められずに、趣味的傾向に走ったり、自らの中で安易に充足してしまうといった傾向も見られる。Web上の写真表現を豊かなものにしてゆくためには、やはり本人の目的意識の明快さとバランス感覚の良さが求められるようである。
 技術的な面では、システムのスピードがまだまだ遅いために、見せ方に限界が生じ、そのことが表現の多様性を狭める結果を招いている。近い将来、回線スピードが上がり、大きなデータを流すことが可能になれば、もっと変化に富んだ快適な写真観賞が可能になることと思う。NTTの電話料金がまだまだ高額なのもネックになっている。常時接続が当たり前になり、料金や時間を気にせずインターネットが利用可能になったとき、Webの世界も画期的な変化を見せるだろう。それには今少し時間を待たなければならない。

Web の可能性
 いずれにせよ、Webは、街のギャラリーや雑誌といった媒体では決して味わえないことを体験させてくれる。HTMLによって編まれる色や形は、この時代の顔であり、われわれの精神構造そのものである。ありとあらゆる雑多なものの集合するWebを、それ故に、取るに足らないゴミ溜め扱いする者もいるが、私には宝石のいっぱい詰まった魔法の小箱のように思える。パーソナルなメディアでありながら、一瞬にして空間を飛び越え、世界と繋がる可能性を持ったWebの特性 には、とても大きな意義がある。
 私は、日本語のホームページとは別に、英語版のホームページも公開しているが、開設以来、実に様々な国の人々からアクセスがあるので驚いている。アクセスログを調べてみると、実に70カ国以上はあるだろうか。そこからWebを通した新たな交流も生まれている。
 過去に写真表現の世界では、ミニコミ誌や自家製写真集といったオフ・マガジン的な方法が盛んに試みられた時代があったが、現在ではWeb がこうしたオフ的な役割を担っていると言える。ミニコミ誌との最大の違いは、瞬時に世界と繋がるという点である。個人レベルでのささやかな情報発信でも、世界中の人々の目にとまる可能性は充分にある。現時点では、あくまでもオフ的な立場でしかないが、いつの日かそれは逆転し、Web が大きな影響力を持つ時代が来るかもしれない。世界のあちこちに存在する写真専門のリンクサイトや写真専門のWebマガジン、個人や団体によるWeb上のコラボレーションなど、様々な試みが国境を越えてなされている。美術館やマスメディアでは捉えきれなかった個人レベルでの表現活動がWebをきっかけにして起こり、様々なアート(美術、詩、小説、音楽など)に携わる人々の意識を大きく変えようとしている。それは、延々と続いてきたアートのシステムが個人レベルで再考されようとしているかのようだ。現実の美術館が機能不全に陥っているのとは対照的に、それは少しずつ作家や個人の意識下に影響を及ぼし、やがて大きな流れとなるかもしれない。先に紹介した、高橋明洋氏は、Web でデジタル写真を始め、それを街のギャラリーでの個展に結実させた数少ないひとりである。佐藤淳一氏は、国境を越えたコラボレーションを実現させた。このように、Web から現実への逆転現象はもう始まっているのである。そこに、写真表現の新たな拡がりと可能性を私は実感している。
 また学校教育の面からも、Webを活用した写真教育は可能であると考えている。学生一人一人がインターネットに接続可能になれば、自宅に居ながらにしてCGIサーバを利用して写真データをホームページ上にアップし、教官の指示を仰ぐことも可能である。実際、写真学校の私のゼミ・ホームページで夏休み中に試みてみたが、なかなか楽しく、実用になるものであった。
 デジタル写真教育の現場で、授業にWeb制作実習を採り入れるのは、デジタルに親しみを持たせる意味で大変効果的である。ホームページを編むことで、学生の表現思考が整理され、写真のセレクトや構成、編集に対する意識、色彩やデザイン感覚などを自然と身につけさせることができる。ホームページとは、一種の箱庭であり、そこに作り手の無意識が色彩やアイコン、画面構成となって現れる。そのことが、学生自身の心の整理につながることは言うまでもない。

表現者にとってのデジタルそして銀塩
 われわれ表現者にとっては、デジタルカメラやWebはあくまでも便利な道具でしかない。発展途上のメディアであることを踏まえつつ、いかに個人の表現として取り入れてゆくかが問われなければならない。デジタルカメラに関して言えば、現時点ではまだまだ未完成な機械である。しかし、その未完成な部分が逆に表現者にとっては魅力的だったりする。デジタルノイズの荒々しさが、今の時代のリアリティーを感じさせてくれたりもする。この時代を表現するには、未完のデジタルカメラこそ相応しい・・・私はそう考えている。
 一方、長い間親しんできた銀塩写真は、ここ4年位の間ご無沙汰している。暗室のオメガは寂しそうにしている。銀塩を否定するつもりはないが、気持ち的に動かなくなった。機械的システムの変化というより、もっと違うものが変化してしまったように感じている。それは、これまでの銀塩的写真の社会的役割が終ったとでも言えばいいのか・・・とにかくそうした妙な感覚が私を支配している。この先、銀塩写真はお花やお茶と同種の、細い線上に残ってゆくことだろう。またそれ故の新たな価値も生まれるだろう。しかし、そこに今を生きる時代のアクチュアリティーは残るだろうか。主婦や女子高生たちは、何の躊躇いもなくデジタルカメラを使いだすだろう。彼らにとっては、銀塩もデジタルも関係ない。便利に撮れればそれでいいのだ。まさにアクチュアルな日々が、デジタルカメラと共に始まる。「写真」が終ったのではなく、始まりとしての新たなアクチュアリティー、リアリティーが待ち受けている。20世紀から21世紀へと更新されてゆく「写真」。こうした変化の時代に今生きていることを、私はひしひしと感じている。

参考資料
高橋明洋 http://boz003.org/
佐藤淳一 http://jsato.org/
丸田直美 http://nmrt.jpn.org/

2001年3月14日、第17回写真技術セミナー (日本写真芸術学会・日本写真学会主宰) が富士写真フィルム・ホールにて開催されました。その講演の際に配付した小冊子に掲載された文章です。

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