九つの断片・・・写真   小林のりお

1. 起床後、いつものようにマックのスイッチを入れる。リモートアクセスを起動し、ブラウザを開く。Webを通し、モニターに映し出される様々な写真や文字、アイコン、バナー広告の類いは、この時代の無意識を具現化している。ホームページという曖昧な形態は、未完成の箱庭のように作り手の意識の痕跡をその背後に宿していて興味をそそる。

2. ネットサーフィンで偶然に出会ったMissing Persons のホームページは、行方不明者の顔写真がクリックする度に延々と出てくる。私は目的もなく、ただそれらの写真を見続ける。世界の果に消えてしまった人々が、私の意識の中で蘇生する。ブラウザを閉じると、それは一瞬にして消えさるのだが、余韻がいつまでも残る。私もまたひとりの行方不明者であることの自覚。

3. Missing Landscapesというコピーが浮かぶ。行方不明の風景・・・。1992年、ロッテルダムの写真ビエンナーレ会場に金村修と私がいた。私はそこで、この時代の風景の終わりを身をもって感じていた。写真(私)の中の風景(世界)の終焉・・・。あれから7年後の今、写真はどこまで来たのだろうか。

(荒れ地というテーマでルイスボルツなど世界の写真家がロッテルダムに集合した。日本からは、土田ヒロミ・柴田敏雄・金村修・小林のりおが参加)

4. 風景を見失った後も、以前と同じような写真を撮り続けるのは惰性でしかない。それはベルトコンベアー上の大量生産となんら変わらぬ非創造的行為にすぎない。しかしながら・・・。

5. 1980年から90年代は、写真が美術という器に取り込まれていった時代だった。美術という巨大なシステムが、写真に勲章を与えたのだ。空っぽの勲章・・・。作家が今生きているにもかかわらず、不在の人として語られてしまうカラクリ。そのカラクリの巧妙さが、美術のシステムを肥大化させてきた。システムに対する素朴な疑問は先送りされ、目的だけが遂行される。もっとも自由であるべきはずのアーティストが、システムの中での奉仕活動に明け暮れる。美術館という名の死体置き場。

6. デジタルの出現は、写真家の意識を大きく揺り動かすだろう。これまでの写真のあり方が個人レベルで総括されるのだ。写真というものを信じて疑わなかった私の中の何かが、確実に変わってゆく・・・。 

7. 今年の4月に、4人の写真家によるコラボレーションをWeb上で実施した。毎日、デジタルカメラで写真を撮り、Web上にアップロードするという行為は、とてもスリリングなものだった。会期最終日、サーバーにたまった多量の写真データを消去した瞬間、フッと体が軽くなったような気がした。音が空間にスーと溶けてゆくように、写真もまた消えてゆく。デジタル写真は、消えてゆく映像なのだ。はかなさの獲得。残すための作品から消すための作品へ。日々繰り返し見るWeb上の写真は、クリックする度に消えてゆく。この消えてゆくという感覚は、どのような変革を私たちにもたらすのだろうか。

(Web Foto Collaboration. 4月1日〜4月30日まで谷口雅・蓑田貴子・佐藤淳一・小林のりおのメンバーでWeb上で行われた。それぞれの家の中と外の写真、手をテーマにした写真などが日々アップロードされた) 

8. 巨大なゴミ箱、そう言われ続けているWebは、本当にゴミの山なのか。本当のゴミ箱はもっと他の所に存在しているのではないかと思いつつ、今日もモニターに向かう。現実の中のWebはいかにも頼りない。空漠とした虚無、空っぽの、とるに足らない、ガランドウの、不健康な、収益のない・・・そうした否定的意味合いでばかり語られるWebを、私は日々の表現の場として選んだ。不完全な装置ではあっても、とりあえずこの場所から写真を考えてみたい・・・そう思ったからだ。自前のホームページを開設して、もうすぐ2年。世界中に拡がるクモの巣は、国境を越えて観客を運んで来ることも知った。しかし、そうした利点が魅力なのではない。他者に向けてというよりも、自分自身に向けて矢を放つ。その空漠さが好きなのだ。繰り返し、繰り返し、データをアップロードしてはモニターを覗く。そこにひとりの行方不明者である私がいる。私の中の、さいはての、辺境の、郊外の、Web。

9. 妻は、買い物や散歩のときにいつでもデジカメを携えている。「あら、便利なカメラね。フィルムがいらないなんて・・・」家庭の主婦にとっては、銀塩もデジタルも関係ない。手軽に撮れればそれでいいのだ。写真家があれこれ思い悩む前に、外側から変化の兆しがやって来る。そして「写真」は何処へ向かうだろうか。かつて「写真」がキラキラと輝いてみえてたことが、懐かしく思える。それほど遠くへ来てしまったということか。「写真」がなんらかの社会的役割を担っていた時代は過ぎ去ろうとしている。フジペットのファインダーをドキドキしながら覗いていたかつての写真少年も、いつの間にやら中年のオヤジになった。そのオヤジが覗いているのは、最新式の150万画素のデジタルカメラだ。やがて、ピクセルの四角い部屋が都市や郊外の街を覆ってゆくだろう。のっぺりと、フラットな、ギザギザの、空虚な部屋。そこに私は生きている。

 

1999年5月「媒」に執筆した文章です。

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